2007年07月16日

ジュニア・チャンプルー サッカーグランド付き設計事務所



その昔、確か「新建築」の新年号の企画だったとおもう。
さまざまな建築家にアンケートをとって、
それを清家清さんが講評するという企画があった。

象でも、3〜4人がわいわい話しながら質問欄に答えていた。

するとジュニアが現れて、しばらく質問項目を眺めていると、
おもむろにそのうちの一つの質問に答えを書き込んだ。


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Q:建築家として、あなたの将来の夢はなんですか?


A:サッカーグランド付き設計事務所!!


やっぱりこれだな!これが究極の夢だな、といってニコニコしていた。


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芝生の管理はなかなか大変。火曜日と土曜日の夕方はここで練習です。



その時は誰も想像すらしていなかったが、その後ひょんな事から十勝に引っ越してくる事になって今日に到る。

十勝のアトリエは、廃校になった小学校を借りているので当然その校舎の前にはグランドがある。いつでもサッカーが出来るようになった!!
さらにその後、やはり廃校になった中学校のグランドを借り、そこに芝の種を蒔き、今では立派な芝生の専用サッカーグランドになった。


本当に、サッカーグランド付き設計事務所が実現した。



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我らのチーム「十勝サーカス」の面々。


ときどきジュニアが生き返って現れ、一緒にお酒かなんかを飲んでいる姿を想像する。
「なんだ近ごろの建築は!なってない!」などといいながら顔を真っ赤にしている。
そこでおもむろに、見せたいものがあると言って、
ジュニアをグランドへ連れて行く。

これが僕らのグランドだよ。と、さりげなく話す。

事態を理解するのにしばらくかかるだろうが、やがて感動しまくるに違いない。

あ〜〜、見せてやりたいなあ。 (^0^)


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十勝はサッカーグランドの宝庫です。この日は、他チームのホームへ遠征練習。


しかし、今シーズンのわが「サーカス」の戦いぶりを見たら、
カツを入れられそうだ。

走り込みが足りない、運動量が少なすぎる・・・
なんて



さあ、A代表、アジアカップ ベトナム戦が始まる。

今日もがんばろう \(^O^)/


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2006年12月07日

ジュニア・チャンプルー  ベッケンバウアー

ジュニアがフランクフルトを訪ねた時のこと。

一人で街に遊びに行ったきり、遅くまで帰ってこない。ジュニアは、外国語が苦手だった。ドイツ語はもちろん、英語も得意ではない。どこかで迷子になって困っているのかなと、みんなが心配しているところへ上機嫌で帰ってきた。

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いやあ、ドイツはいいところだ。ビアホールに入って一人で飲んでいたら、いろいろな人が話しかけてきた。何いっているのか、さっぱり分からない。そこで「ベッケンバウアー」って叫んだんだ。するとみんな喜んで「ベッケンバウアー」って叫んで乾杯を始めた。それからビールがタダでつぎつぎと運ばれてくる。

いやあ、ドイツは本当にいいところだなあ。ベッケンバウアーと叫べば、ビールがいくらでもタダで飲める。

下落合の居酒屋「鳥八」で、そば焼酎雲海を飲みながら、ジュニアがそんな話をしてくれた。

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ケニヤで一人散歩をしていた時、若者から声をかけられた。しばらく話をしているうちに、日本人がもの珍しいのか、近くにいた仲間や裸足の子どもたちが集まってきた。みんながわいわい言い出して、何を言っているのか分からない。ふとジュニアのベッケンバウアーを思い出して、ビバ!ロジェ!と叫んでみた。
が、反応がない。もう一度、ロジェ・ミラというと、みんなびっくりしたように顔を見合わせた。

するとみんながはじけて大歓声をあげる。
「おまえはロジェ・ミラを知っているのか?」
「アルゼンチンとのゲームもみたぞ」
1990年イタリアワールドカップ開幕戦。前回の王者アルゼンチンをカメルーンが1:0で破ったゲームのこと。

「ロジェはアフリカの英雄だ!あのゲームに勝った後はアフリカは3日間寝なかったんだ。」と言って、マコッサダンスを踊る。(若い頃の三浦カズがやっていたやつ)
ビールをおごられるところまでは行かなかったが、最大級の親しみを見せてくれた。

ジュニアが法政大学から講演の依頼をされた時、講演よりもサッカーをやろうと言って、サッカーのゲームにしてしまったこともあった。

フランスのナント現代美術館でのインスタレーションの時は、まず、ワークショップに参加するフランスチームとサッカーのゲームをした。パリのチームとも、ゲームした。

アジアでは、韓国と、毎年ホームアンドアウェイで日韓戦を戦っている。
今年は済州島で中国チームとも対戦した。
もちろん台湾でもゲームをしている。


南米チーム、コロンビア、ペルー、ベネズエラ、ボリビア、エクアドルの人たちとも毎年ゲームを楽しんでいる。

サッカーを一緒にすれば、すぐに楽しい仲間になれる。
サッカーは世界の共通語。
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2006年11月14日

ジュニア・チャンプルー  体育会系

夕方になると、みんながランニングをした。毎日4キロ程度だが、皆速かった。しばらく運動不足だった僕は、象に入った頃はとてもついて行けないくらいだった。なかでもジュニアは速かった、短距離が特に速く、学生時代は100メートルを11秒前半で走っていたらしい。毎年青梅マラソンに参加していたが、象内部の競争では、ジュニアが三連覇した。青梅での優勝者が、象で一番偉いのだ、「創造は体力だ!」 と言うことになっていた。

また冬になると毎年、象全員で蔵王に「スキー合宿」に出かけた。これは合宿という言葉が示すように、決してリゾートではなかった。朝6時には起きて、8時にはリフトの前に集合、夕方4時5時まで滑る。夜は当然のように宴会で、12時過ぎまで続く。

夏には西伊豆の妻良に「海合宿」、これまた楽しくもハードだった。

お金はなかったけれど、けっこう楽しく遊んでいた。たいていはお金のかからない遊びだった。やはりスケッチをして模型を作る、建築が一番の遊びだったように思う。

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名護市庁舎コンペ模型

1980年のはじめ頃、「名護市庁舎」の第一次コンペに入賞して、賞金70万円をもらった。その賞金を使って、みんなのユニフォームなどを作りついにサッカーチーム「Team ZOO」が誕生した。監督はジュニアで、キャプテンは太田徹だった。太田は象に大学サッカー部監督の推薦状を持ってやってきた強者で、もちろん建築でも活躍したが、サッカーに於いては本当に一人だけレベルの違うスーパースターだった。

早速、大手設計事務所5社(日建、日設、梓、久米、石本)で構成される「日本設計事務所リーグ」に参加を申し込む。最初の年は、オープン参加ということで各チームと総当たり1回戦を戦った。そして、5戦全勝したのが認められて、弱小アトリエチームながら2年目からは正式にリーグに加盟させてくれた。年間総当たり2回戦、計10戦のリーグ戦だった。

象にはサッカー経験者はせいぜい4〜5人くらいであとは皆初心者だった。しかし練習量が豊富な象は、体力で他チームを圧倒していて、勝利を積み重ねていった。毎日4キロのジョギングをしたあと、サッカーのミニゲームを1時間も2時間も、日没でもうボールが見えなくなるまで、毎日毎日サッカーをしていた。

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空間に恋して P292


選手交代枠が自由なリーグだったので、女性も含めて全員が少なくとも10〜15分は出場した。サッカー初心者たちへの監督ジュニアの指示は、「とにかく走れ〜」だった。2年目になるとその指示は、「ボールの方に走れ〜」に変わった。

太田はフルバックに入りほとんど一人で相手の攻撃を止め、時々前線までドリブルで持ち込み得点して来るという活躍だった。そしてシーズンを10戦全勝で優勝した。フルバック太田が、12得点で得点王。そして、わたくし、まちやまが11得点6アシストで、得点王2位、アシスト王を獲得した。ぼくもサッカー部の経験はなかったけれど、圧倒的な足の速さ(今では誰も信じてくれないだろうから、自分で自慢しておこう)を活かして活躍した。

こうして、ぼくたちはサッカーのとりこになった。

その後もチームは快進撃を続け、引き分けはあっても、無敗を続けていった。無敗の快進撃は、1983年11月20日のゲーム中に、ジュニアが死んでしまうまで続いた。

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空間に恋して P347

笠原小学校の現場を担当していた頃のこと。

現場の運営で、ぼくがちょっと問題を引き起こしたことがあった。みんなに迷惑をかけ何らかの形で、責任を取らなくてはいけないなあと、覚悟していた。首を洗って待っていると、ジュニアから呼び出しが掛かった。ジュニアは怒っている。そして、一言。
「今回のことはおまえが悪い。グランド10周だ!」
と判決を下した。

posted by ましん at 09:24| Comment(2) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

ジュニア・チャンプルー  ダメなのもはダメ

ジュニアは、純粋で面白い人だったなあという印象が強い。よくおかしな失敗をしていた。象に入った頃よくそんなエピソードを聞かされた。その後、たっぷりと自分自身で体験することになるのだが。

たとえば、
象の最初の事務所は麹町のマンションの11階に構えたそうだ。ある日、いつも時間に正確なジュニアが今日は遅いなとみんなが思っていると、昼頃になって、「まいったなあ、他所の事務所で働いてしまったよ」と言いながらやってきた。よくよく聞いてみると、マンションの二階下の同じ位置にやはり設計事務所があり、間違ってそこに入り、「なんかいつもよりきれいだなあ」とは思ったが、そのまま働いていた。誰かがお茶も出してくれていたらしい。
みんな今日は遅いなあと思っているうちに、はたと間違いに気づいたそうだ。

たとえば、
事務所のスタンドの電球が切れたので、買いに出かけた。なんか変わった電気屋だなあと思ったが、電球が切れて困っている、すぐにほしいのでなんとか売って下さいとお願いして、電球を買ってきた。後になって判ったことだが、その店は「トレビ」という喫茶店で、どうやらそれを「テレビ」と見間違えて電気屋と思ってしまったらしい。それにしてもよく電球を売ってくれたものだ。

たとえば、
菊野さんとのやり取りはいつも面白かった。
現場にいる菊野さんがジュニアに電話で窮状を訴えている。「とにかく現場にお金がぜんぜん無い、少しでもいいからすぐに送ってほしい」という内容らしい。菊野さんは相当困った状況にあるらしく、きびしくジュニアを詰問しているようだ。しばらくそれにじっと耳を傾けていたジュニアは、俄然、反撃に出る。「ばかやろう。俺をそんな男だと思っているのか!!見損なうな。金があったらとっくに送っている。無いから送らないんだ!!!」と言うなり、がちゃんと受話器をたたきつけた。

さてある冬のこと。蔵王でのスキー合宿の帰りみち。
仙台でPL教団の教会が建設中だったので、一同で現場見学に行く。
ジュニアがみんなを案内している。ホールにやってきたところでジュニアはその舞台に注目する。舞台の背景の壁が大きな円弧を描いている。
ぼくは、なかなかエレガントなデザインだ、と思ったが。突然、
「菊野〜。なんだこのデザインは! まるでなってないじゃないか!」
「やり直しだ!」と興奮して叫ぶ。その後もさらに叫びが続く。
しばらくジュニアの言い分に耳を傾けていた菊野さんが反撃に出る。
「そんなこと言ったって、ここは、大竹さんが自分で決めて自分で図面を描いたところでしょ!!」「その通りに作っただけですよ」と、もっともな反論だ。

一瞬、ウッと詰まったジュニアは、しかし、

「ダメなものはダメだ!!! ダメなものがわからない奴はまるでダメだ!!まるで信用できないな!!!」

と叫んで、ぷいっと去っていった。
posted by ましん at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

ジュニア・チャンプルー 教育者Jr

僕が入った頃の象は、仕事も金もなかったが、とにかくエネルギッシュにやっていた。特に大竹ジュニアは、若いスタッフやアルバイトの学生にまで、どんな建築を作りたいか、どうして建築はそうでなくてはならないのかと、いつも熱っぽく語っていた。
大事なところがときどき抜けているような人だったが、しっかりとした方法論を考えていた。

最近の言葉にすると、PDCA(Plan Do Check Act=改善)サイクルを回しているような人だったのかも知れない。ジュニアの場合は、DCAPの順番だったかな。

集落調査の時は、1/2500の白地図に4色ボールペンで、屋根伏、敷地境界の様子、緑地、水路、イメージアビリティーの高いものなどをそれぞれ何色でどのように描くかを細かく指示した。

そればかりか、しばしば珍味の食べ方や(ちびちび食べるべし)、椰子の木を素早くスケッチするコツなどを僕らに伝授した。
あまり器用でないところがあって自分で工夫することでいろいろな能力を獲得してきたと、本人は思っていたのではないかと推測するのだが、そうした経験を後輩たちに伝えたいという「親切な」気持ちが強い人だった。

誰でも自分と同じ方法でやれば自分と同じことができる、と思って後輩を励ましていたのかもしれない。

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やくざ映画の鑑賞の手引き

ある時はやくざ映画の鑑賞の手引きを10箇条にまとめたものをぼくらに渡し、やくざ映画の魅力を伝授したりもした。
またある時、フリーハンドで円を上手に描く方法を(手首を置いて少しずつずらす)実演を交えながらぼくらに話していた。その時、樋口(裕康)さんが通りがかり、クレヨンを手に取るとサーッときれいな「まん丸」を描いて「別にこう描けばいいんだろ」といって笑っていった。僕も下を向いてこっそり笑った。

集中すると、それ以外のことが目に入らない人だった。
ジュニアと一緒のペアでサーベイをすると、昼食も食べずに夕方まで休み無く作業するというので、みんなに怖れられていた。だいたい、食事するのはいつも忘れていた。

仕事のやり方は、当時はむちゃくちゃだと思っていたのだが、今から思えば、かなりシステマティックだったのだろう。
みんなが描く様々な案を、タイプ別に分類し、それらに名前を付けた。
現在直面している問題点を整理し箇条書きにした。そしてそれを解決する方法を「一人3案ずつ描け〜。1時間後に集合。はじめー!!」と号令をかけていた。

エスキスを見るとだいたい「やりなおーし!」とどなられることが多かった。が、ときどきまだ新人の僕のエスキスを見ても、「おー、それおもしろいな」とか「それいけるなあ、もう少し展開しろ」などと言って、励まし褒めてくれた。
話す言葉はいつもワンセンテンスだった。

大学では褒められたことがなかったけれど、象の先輩たちはジュニアに限らずみんな時々褒めてくれた。富田さんも樋口さんも、いいと思ったものは誰が描いたものであれ、いいと言ってくれるので、楽しかった。

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樋口裕康のスケッチ

樋口さんはすばらしい絵やスケッチを描く人で、これほど魅力的なスケッチを描く人は世界中の建築家にもそうはいないとおもわれるほど才能に恵まれた人だ。けれど、新人のスケッチを見ても決して批判せず「とにかく枚数で勝負だ」と言って励ましてくれた。実際その後、象の仲間から何人もスケッチ名人が生まれた。が、ここでも僕は落ちこぼれたようだ。

ジュニア以外の人は皆大学で教えることを敬遠していた。富田さん、樋口さんも何度も誘いを断っていたし、ジュニアは早くに逝ってしまった。彼らこそ本当の教育者だったように思うのだが、ごく限られた人しかその世界に触れることができなかった。

作家としてのジュニアもさることながら教育者としてのジュニアを失ったことも、本当に残念なことだった。
posted by ましん at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月26日

ジュニア・チャンプルー  まちやまの初給料

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人生劇場 飛車角
男ごころは、男でなけりゃ
男が惚れて男が泣いた
   ― 尾崎士郎の名作「人生劇場・残侠篇」
日本人、万古の血を湧かす俊才澤島忠監督の傑作任侠ロマン第1弾!!


それから3ヶ月くらい経っただろうか。
沖縄石川市の白浜海浜公園の実施設計も一段落した頃。

「みんな金が無くて困っているよなあ」といって、ニコンFを取り出し、誰かが「すずや」へ持っていった。カメラは樋口さんのもので、当時は「すずや」という高田馬場駅前の質屋にそのカメラを持っていくと、黙って5万円貸してくれた。

こうして手に入れた5万円が事務所に届くと、キンタ(ことピチピチかわいい菊池美和子さん)が、テーブルに5枚の1万円札を拡げて並べ、その上にそれぞれ1万円札と同じ大きさに切った青焼きの紙を重ねた。

キンタはおもむろにその紙に太いマジックで「給料」と書き、1万円札と重ねてホチキスでバシッと留めた。そして、年の若い順に5人に配られた。

その日の夜、仕事が終わり、大竹さん、菊野(憲一郎)さんと3人で駅へ向かって帰る道、「まちやま、おまえだけ給料が出ていいよなあ、ちょっと一杯飲んでいこう」。ということになり3人で「人生劇場」という居酒屋にはいる。
先輩たちから建築の話を伺いながら、楽しく飲み食い、夜が更けた。

店を出る時に僕は1万円札をホチキスからはずして、3人分の会計を済ませた。

こうして、僕が建築で初めて稼いだお金は、社長と上司におごってぜんぶ消えてしまった。

ポケットのなかには、給料と大きく書かれた青焼きの紙片が残っていた。
posted by ましん at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月25日

ジュニア・チャンプルー  まちやま、象にいく

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ジュニアが大好きだった網走番外地


象に行く時の服装はどうしようかと考えた。

まず、スーツは場違いだろうなと思った。カジュアルだけれどおしゃれに、今で言うデザイナー風(当時はこういうものはなかったが)でいこうと決めた。今帰仁村公民館のような土着的な建築を作る人たちは、きっと、都市的に洗練されている人たちに違いないと思っていたからだ。というわけで、目一杯おしゃれして出かけた。

アトリエが青山とかではなく高田馬場にあるというのも気に入った。きっと大学の研究室のような雰囲気が残っているのだろうなと想像した。しかし住所が示すあたりをいくら歩いても、それと覚しきものは見当たらない。

すると突然すべてが明らかになった。
目の前にあるこのおんぼろの現場プレファブ、何度もその前を通りながら気づかなかった、これが象のアトリエだったのだ。それは赤門寺境内の墓地の隅っこに建っていた。幅2メートルもない路地に面して建っていた。

プレファブの建物は、3間*5間の2階建て。雑草に埋もれ、所々つたがはい上がっている。窓や出入り口にはガタピシの木建てが入っている。1階の入り口にはプラスチック波板のさしかけ屋根が掛かり、そこから2階へ鉄骨の外階段がついている。その前には、やはり現場用の仮設トイレがぽつんと建っている。

1階の入り口からアトリエの中をのぞく。
とにかく散らかり放題だ。きたない。
大きな平べったい模型がある。油土で作っている、グニャグニャと不思議な形だ。(沖縄石川市白浜海浜公園の模型だった。)ぶつぶつ言いながら竹べらで細かく作り込んでいる人。奥の方では、たばこを吹かし泡盛を飲みつつ、スケッチをする人。怪しげな人ばかりだ。

僕は衝撃を受けている。いや、感動している。
全く予想もしなかったものに出会ってしまったのだ。

こんなところで建築の設計をしているなんて!
なんてメチャクチャなんだ!!

ふと自分の服装に気づき、僕は悔やんだ。くそ!完全に浮いてるぞ。

2階に上がってポートフォリオをひろげる。

いまいましいことに作品もまったく場違いだ。
大学での指導のおかげですっかりモダンに仕上がっている作品を見せながら、汗をかいている。自分に自信がないものだから、教官から言われるままに、自分の想いとは違う作品を作ってきたことが恥ずかしくて、小さくなっている。

あご髭にくしゃくしゃの髪、黒縁めがね。よれよれの黒い長袖のTシャツに黒のジーンズ。今では普通だが、当時としては異様な黒ずくめ。色白でハンサム。大竹ジュニアだ。
その隣には、口髭をたくわえ眼光鋭くこちらをにらむ、樋口裕康。こちらもかっこいい、手強い。
なにやらふわふわした服に身を包み、優しげにほほえむ富田玲子。


3〜4日後、大竹さんに連れられて、二人で喫茶店に行く。
どうやら僕は象で働けそうだ。しかしなにかぼそぼそと話す大竹さん。今仕事があって忙しいけれど、象に金はない。要するにただで働けるか、ということだった。

さあどうしよう。自分の家も近いし、まだしばらく親も援助してくれるだろう。正直、これから自分の修行だと思っている。それに、一目見て象の雰囲気が気に入ってしまっている。タダでもいいか、と思った。

しかし「タダなら働きません。」と答えてしまった。そして、お金が無くて苦労するのはかまわない。だけど、お金ができた時は応分の給料がほしい。仲間の一人としてあつかってほしい、と付け加えた。

少し考えて大竹さんは、「わかった。給料はちゃんと払う」、きっぱりと言った。

こうしてぼくは象の一員になった。
posted by ましん at 17:05| Comment(0) | TrackBack(1) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月21日

ジュニア・チャンプルー  まちやま、今帰仁に出会う

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大学に入って5年が経った。その間あまり大学にも行っていない。大学で教える「建築」と自分が興味を持つ世界が大きくかけ離れていた。卒業に必要な単位も取っていない、つまり、落ちこぼれていた。

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」、シューマッハーの「スモール イズ ビューティフル」などが出版され、近代化の行き過ぎによる様々な問題に、関心を持っていた。宇井純が東大の自主講座で「公害原論」をやっていた頃だ。水俣病の全容を初めて知り、ショックに打ちのめされた。石牟礼道子の「苦界浄土」などから受けた衝撃は大きかった。

現在注目されている環境問題が、初めて議論され始めた時代だった。
資源の有限性、地球環境、省エネルギー、地域やコミュニティーなど、今と全く同じテーマに社会の関心も向かい始めていた。

僕は東京で生まれ育ったせいかもしれないが、早くから近代化がもたらす恩恵よりも、それによる喪失の方に関心が強かった。当時、東京の下町は環境汚染が激しく、大きな問題となっていた。
僕たちの高校(都立両国高校)も騒音と大気汚染(光化学スモッグが激しかった)のため窓はすべて二重窓で全館にエアコンが入る人工環境だった。そんな時代だ。

将来何か表現に関わる仕事に就きたいと、漠然とは考えていたけれど建築には自信が無く、かといって他に出来そうなこともなく毎日くよくよ悩んでいた。

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そんな頃、今帰仁村公民館に出会う。

真っ赤な列柱と緑の屋根。
その頃はまだ屋根はコンクリートのむき出しだったが。
ああ、これだな。これだなと。
その初源的な建築に強く感動した。
ここなら自分が生きていける。
この世界に入りたい。

どうやってたどり着いたか今となっては忘れてしまったが、
とにかく象に電話をかけ、
「大竹さん」と会う約束を取り付けた。
posted by ましん at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

ジュニア・チャンプルー

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ジュニアこと大竹康市は、象設計集団の創設者である。U研究室(故吉坂隆正主宰)で同僚だった富田玲子、樋口裕康それに重村力、有村桂子などが加わり、象の活動を始めた。

ジュニアはU研究室時代からの大竹の愛称だ。
大竹さんは多くの人から愛されていた。みんなは親しみを込めて、彼をジュニア、ジュニアと呼んでいた。ぼくにはその呼び方はなれなれし過ぎるように感じていたので、大竹さんと呼んでいた。が、いまはジュニアと呼ぶ、親しみを込めて。

Jrは名護市庁舎が完成してから、3年足らずで死んでしまう。それもサッカーのゲーム中に突然グランドに倒れて、この世を去ってしまった。享年45歳だった。

Jrが死んで10年、家族が中心になって、Jrの楽しい逸話を集めた「ジュニア・チャンプルー」という追悼文集が出版された。その時の僕は、まだJrを過去のこととしての追悼文を書く気にはなれなかった。いま頃になってだけれど、象とそしてJrと出会った頃のことを書いてみようと思う。
posted by ましん at 21:33| Comment(1) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月14日

15年目の沖縄 名護市庁舎

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名護市庁舎を訪れた。15年ぶりのこと。
遠目に市庁舎が見えてくると胸が高鳴る。
僕たちの特別な建物だ。

竣工したのは1981年、あれから25年が経った。柱の型枠ブロックや外壁の花ブロックも風雨に打たれ、歳月をその表情に映している。それは市庁舎だとか何か機能を持つ建物であるというものではなく、まるで遺跡か、あるいは、ずっと昔からそこにあった地形や珊瑚の隆起のように見える。
内部が市庁舎として使われていることが不思議に思われるほどだ。

周囲のガジュマルやアサギテラスをよじ登るブーゲンビリヤは、亜熱帯沖縄の植物の生命力を誇示している。

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僕は大竹ジュニアーのことを思い出している。

そもそも僕が象設計集団の一員になったのは彼がいたからだし、その後、象の代表になり今も象でいるのは彼が死んだからだ。

私は建築がそれらを放棄してしまった状態を想定して、それでも成り立ちうる何かを探してみたい。
建物であることを放棄して、「ものそのもの」としても成り立ちうる何かですね。(大竹康市)


いつか時が来て、名護市庁舎も市庁舎であることを辞める日が来るだろう。たとえその日が来ても、名護市庁舎が解体されることはないと願う。資料館になったりレストランに変わったりするかもしれない。すべての機能を失って、単なる記念碑になるかもしれない。それでも、名護の人々は決して建築を壊したりしないだろう。

名護市庁舎は、すでに「ものそのもの」として成り立ちうる何かを持っているのだから。
posted by ましん at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ジュニア・チャンプルー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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